
金田一耕助ファイル5 犬神家の一族 (角川文庫)
横溝 正史
この本について
ふだん仕事に追われていると、言葉の意味を深く味わう時間ってなかなか取れませんよね。気づけば「わかったつもり」の語彙だけで日々を回していて、ものごとの背景を想像する余白がなくなっていく感じがあります。僕も同じで、忙しさに押し流されると、視点がどんどん平坦になっていくのをよく感じます。 『犬神家の一族』を読み返すと、その平坦さに少し風が通るというか、言葉が持つ奥行きを思い出させてくれるんですよね。読者の方が保存していた「ふくいくたる香り」や「縷々として」「蒼茫」「一瀉千里」みたいな表現は、ただ難しい語彙だから気になったのではなく、景色や人物の感情の揺れを立ち上がらせる“温度”がある言葉だからこそ引っかかったのだと思います。例えば、人物の心情を「ねんごろ」や「唯々諾々」で描くときの、にじむ人間臭さ。あるいは「活人画」や「卓抜不羈」で表される、ひと目で情景が立ち上がるような質感。こういう言葉を追いかけていくと、物語の謎解きより前に、人間や欲望の輪郭が自然と浮かび上がってきます。 そしてもう一つ大きいのは、こうした語彙の力によって、自分の中の感情の細部まで言語化できるようになる感覚です。日常で説明しづらいモヤっとした気持ちに出合ったとき、「あ、これはあのとき出てきた“傲岸不遜”みたいなニュアンスだな」とか、「この疲れ方は“縹渺”とした感じに近いな」とか、ちょっとしたラベルを貼れるだけで少し楽になるんですよね。物語を読む行為が、そのまま自分の内側の整理に繋がっていく感じがあります。 なので、この作品が刺さるのは、ストーリーよりも「言葉の手触り」をちゃんと味わいたい人だと思います。横溝正史はミステリ作家だけど、言葉遣いに触れていると、人の複雑さに向き合うための語彙のストックまで静かに増えていくんですよね。
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